ミシガン湖でボートに乗る塩原又策と北里柴三郎、高峰譲吉両博士。パーク・デイヴィス社、発売当初のタカジアスターゼの瓶と、品川工場にかかるクロロマイセチンの看板
第一三共の前身のひとつ、三共株式会社は、1913(大正2)年に株式会社になりました。匿名合資会社だった「三共商店」が株式会社となる成長の契機となったのが、1902年にアメリカのパーク・デイヴィス社(幾度かの買収等により現在のファイザーに吸収合併)の日本代理店となったこと。両社の絆がぐっと深まったのは、三共商店の代表・塩原又策が1904年にパーク・デイヴィス社を訪問したときのことでした。
その際塩原に同行した人物の一人が、北里柴三郎博士。2024年に刷新された新千円札の顔となった研究者です。
東京日本橋・南茅場町にあった三共商店薬品部
三共商店は、塩原又策が友人たちとの共同出資で1899(明治32)年に設立した会社です。後に三共株式会社の初代社長となる、高峰譲吉がアメリカで開発した胃腸薬・タカヂアスターゼを日本で販売していました。タカヂアスターゼの日本以外の販売権を所有していたのが、当時創立40年ほどの歴史を持つパーク・デイヴィス社です。
1902年、十数年振りに日本へ帰国した高峰の斡旋によって両社の関係が結ばれ、三共がパーク・デイヴィス社の日本代理店となりました。(三共商店誕生と成長のストーリーはこちらから)
左から:北里柴三郎博士、高峰譲吉、穂積陳重博士、塩原又策
それから間もない1904年、塩原はアメリカのセントルイスで開催された万国博覧会へ出席するため、北里柴三郎博士や法学者穂積陳重博士とともに渡米。北里博士を同伴してパーク・デイヴィス社を訪問します。
北里博士は1886年からドイツに留学し、病原微生物学研究の第一人者、ローベルト・コッホに師事して研究に励むなか、1889年に破傷風菌の純粋培養に成功。さらに、その毒素に対する免疫抗体を発見したことを応用し、ジフテリア血清療法を確立したことで世界的な研究者として知られる存在になっていました。
デトロイト川沿いに広がる在りし日のパーク・デイヴィス社
一方パーク・デイヴィス社は、アメリカ政府の細菌製剤製造許可番号第一号として細菌製剤の製造に取り組んでいた会社でした。そのため北里博士を心から迎え、彼を連れてきた塩原に深い感謝を示しました。そこに、当時パーク・デイヴィス社の学術顧問を務めていた高峰も駆けつけ、北里と塩原との三者でパーク・デイヴィス社の幹部と懇談・交歓のひとときを過ごすことが叶ったのです。
三共商店とパーク・デイヴィス社の絆が深まるきっかけとなったこの訪問は、両社にとって記念すべきものとなりました。塩原は、この訪問の際にパーク・デイヴィス社の取締役会長のヨット艇上に招かれ、ミシガン湖を回遊した際の記念写真をその後も大切に所蔵していました。三共の歴史を振り返るときには、よくこの写真を眺めて感懐にふけっていたと伝わっています。
塩原又策が大切にしていた写真。左から:塩原又策、北里柴三郎博士、高峰譲吉
パーク・デイヴィス社社長来日時写真(1906年9月) 左からライアン社長令嬢、塩原又策、千代夫人、 ヘンリー・ジョージ2世(米国下院議員)、高峰譲吉、ライアン社長
2年後の1906年には、高峰が同行してパーク・デイヴィス社のライアン社長が来日します。国下院議員ヘンリー・ジョージ氏も伴ったこの一行を迎えた塩原は歓迎大園遊会を開催。そこでも北里博士をはじめとした著名な研究者を多数紹介したことで、ライアン社長は日本とその薬学界や医学界への認識を深めて帰国していきました。
丸之内三共薬局前でパーク・デイヴィス社Loynd社長と鈴木万平社長(1952年1月)
それからも塩原とライアン社長は相互に訪問し合い、両社の友好を深めます。それが、1960年にパーク・デイヴィス社の製品を日本で販売する合弁会社「パーク・デービス三共株式会社」を設立し、さらに1996年にはアメリカに糖尿病治療薬の販促を担う「三共パーク・デービス」を設立する展開につながりました。
三共パーク・デービスは2001年1月に、当時の三共の米国子会社であった三共ファルマインク(現在の第一三共インク)が、ファイザー社から持ち分を買い取り、発展的に解消しました。
第一三共の2025年3月期連結年間売上高に占める米国の割合は34%を占めています。塩原が築いた米国への第一歩は、120年の時を越えて、しっかりと形作られているのです。
先進的な木造の洋風建築で薬を販売。三共の専売品を扱った、日本橋「中央薬局」
アメリカと日本の春を今も彩る。創業者・高峰譲吉が両国の友情の証に贈ったポトマックの桜の物語
アメリカの薬局方式をいち早く導入。喫茶店「ソーダファウンテン」を併設した「丸之内三共薬局」
サルバルサン増産や新薬製造のために。幻の「第二製薬」誕生秘話