三共商店の設立者 塩原又策とタカヂアスターゼの新聞広告

熱い友情と、良薬を届けたいという想いが基盤に。「三共商店」誕生と発展の道のり

2022年12月16日
Our People & Culture
Share

科学者であり、実業家でもある高峰譲吉が、アメリカで発明した胃腸薬「タカヂアスターゼ」。それを日本で販売するために「三共商店」が生まれました。後に高峰が初代社長を務めることになる、三共株式会社の前身の会社です。

熱い友情が、タカヂアスターゼ輸入のきっかけに

三共商店の中心人物となるのが、横浜で外国商館への絹織物売込商をしていた塩原又策です。始まりは1897年のこと。事業を広げたいと考えていた塩原は、緑茶輸出業を営む友人・西村庄太郎が渡米する予定があると聞き、日本で事業化できそうな仕事を探してきてほしいと依頼します。

翌年、渡米した西村が、領事館でたらふく日本食をご馳走になった後で、お寿司まで出てきて「もう食べられない」、という時にシカゴ領事・能勢新五郎から紹介されたのが、タカヂアスターゼでした。実際に使ってみると、その効果の高さに驚くと同時に、米が主食の日本人にも合う薬だと実感。塩原の新事業になると直感し、発明者である高峰のもとを直接訪れ、塩原へ販売権を与えてほしいと頼み込みます。

ちょうど日本での販売を考え始めていた高峰は、西村の熱意に心を打たれ、見本を託しました。帰国した西村から販売権を取得するよう勧められた塩原は、受け取ったその良薬を日本で普及させたいと、すぐに交渉をスタートします。

 

東京日本橋・南茅場町にあった三共商店薬品部

「三共商店」誕生。アドレナリンなども輸入販売し、急成長

1898年12月、塩原と高峰は「委託販売契約」を締結。それに伴い、西村ともう1人の友人、福井源次郎の共同出資を受けた匿名合資会社「三共商店」が横浜に誕生しました。「三共」という名称は、塩原・西村・福井の3人で起こしたことに由来しています。

その業務は、輸入したタカヂアスターゼを瓶に小分けにし、契約していた東京麹町の斎藤満平薬局に持ち込むところから始まりました。当時、簡単な製法のガレヌス剤(「生薬」から有効成分を取り出した薬剤の総称)などの製造販売のみが主流だった日本で、学術的に裏打ちされた薬を輸入・販売したのは画期的なことでした。

塩原の地道な努力によって事業は軌道に乗り、3年後には東京へ進出。関東だけではなく関西にも総代理店をもち、販路をさらに拡大していきます。

また、1900年に高峰がアドレナリン抽出に成功したと知ると、塩原は日本におけるアドレナリン販売を三共商店に一任してほしいと希望します。2年後に高峰とキャロライン夫人が来日すると神戸で出迎え、直接交渉に臨みました。高峰は塩原の人柄と実績を高く評価しており、無事に契約。アドレナリンは日本でも、止血用・血圧上昇用の薬品として幅広く使用されるようになりました。

さらに三共商店は、アメリカでアドレナリンの販売を担っていたパーク・デイヴィス社(現 ファイザー)の日本総代理店にも選定されたことにより取り扱う薬の数が増加。横浜の店舗は瞬く間に手狭となったため、東京日本橋・南茅場町に新店舗「三共商店薬品部」が開設されました。

しかし塩原は慢心することなく、宣伝活動にも注力。自ら広告の原稿を執筆し、医学者からの臨床広告も集めた季刊誌を作って配布することで、医師や患者さんたちからさらなる信頼を得ていきます。

輸入販売にとどまらず、製薬にも挑戦

塩原はその後、渡米して医学会に参加すると、パーク・デイヴィス社の工場見学にも訪れて関係を深めました。さらに帰国の際には欧州各国を歴訪して見聞を広げると、輸入販売にとどまらず、製薬事業にも取り組もうと決意します。1905年には、東京の店舗から10分ほどの日本橋箱崎町に工場を設立。栄養剤グリコナールや乳酸菌製剤ラクトスターゼなど、新薬製造にも次々と挑戦し、成功させていきました。

そうして製薬会社としての経験を重ね、1913年の三共株式会社発足に至るのです。患者さんに良い薬を届けたいという塩原の熱意と行動力は、今の第一三共にも受け継がれています。

Share

to Page Top