先進的な木造の洋風建築で薬を販売。三共の専売品を扱った、日本橋「中央薬局」

2024年08月26日
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1910年代から20年代前半まで、東京の日本橋通り沿いで人々に重宝された「中央薬局」。第一三共の前身のひとつ「三共株式会社」直属の薬局です。現在の第一三共株式会社本社オフィスのある日本橋本町の近く、日本橋室町にありました。周辺には昔ながらの木造建築のお店が並ぶ中、異彩を放つ洋風建築でした。その建築のみにとどまらない薬局の先進性と、成り立ちをご紹介します。

日本橋 茅場町にあった三共薬品合資会社社屋

薬剤師が年中無休で調剤。ほかとは一線を画す薬局

1909(明治42)年、古くからの薬種問屋街・本町三丁目にほど近い日本橋室町に、当時はまだ珍しかった木造洋風建築の2階建ての建物が誕生しました。三共株式会社(開店当時は合資会社)に発足した「小売部」の店舗です。それまでの日本橋区南茅場町(現在の中央区日本橋茅場町1丁目)にあった社屋を移転し、本社直属の小売機関として、1階では自社製品と処方調剤を、2階では医療機器を販売していました。後に調剤部門が独立すると「中央薬局」と名付けます。

中央薬局が取り扱うのは、多くは三共の製品でしたが、そのほかに処方薬の調剤も行い、米英独仏などからの輸入薬も置いていました。ただし、国内の他社製品は全く扱わなかったそうです。

当時の日本橋では、和服姿がほとんどだった中で、洋装の薬局従業員。

店頭には、治療薬報や文献類の編集にも関わっていた主任薬剤師をはじめとした薬学博士や薬剤師の5名が常駐。本町の問屋街に連なるほかのお店では、従業員のほとんどが角帯に前垂れの和服姿だったのに対し、中央薬局では全員が洋服を着用していました。まだ一般的ではなかったレジスターを使用していたことも話題だったようです。

著名人も含め多くの人がやってくる薬局は、年中無休で夜9時まで営業。当直もあった薬剤師たちは、夜の仮眠中にも起こされ調剤に対応するなど忙しい日々を送りました。

当時の中央薬局店内。左手前には当時珍しかったレジスターが設置されています。

塩原又策が率いた「中央薬局」開店までの道のり

中央薬局が洋服やレジスターなどを取り入れたことは、当時専務取締役だった塩原又策の方針でした。店舗が社屋に通じていたことから、塩原は毎日車でやってきて出入りし、通りがかりに助言をしていったという記録も残っています。

塩原は、三共の元となる「三共商店」を1898(明治31)年に立ち上げました。高峰譲吉(三共株式会社初代社長)がアメリカで発明した「タカヂアスターゼ」を日本で販売したいと、横浜の弁天通に会社を興し、まずは自分で東京の薬局に持ち込んでいました。(「三共商店」誕生のストーリーはこちら

その後高峰のもうひとつの発明品の「アドレナリン」や、アメリカのパーク・デービス社の製品を取り扱うようになり、1900年に東京へ進出。東京日本橋・南茅場町に新店舗「三共商店薬品部」を開設します。塩原は宣伝活動にも力を入れて季刊誌を作成。医学書の出版、医療用機器の輸入販売もするようになり、1907年に法人化、三共薬品合資会社に改組し、塩原が代表となります。

その頃には南茅場町の社屋が手狭になっていました。

1924年に完成した鉄筋コンクリート7階建本社社屋。関東大震災でも残りました。

そこで、日本橋区室町三丁目10番地(現・中央区日本橋室町二丁目2番地、現在はコレド室町1)の土地を買収。中央通りと浮世小路に面し、古くからの薬種問屋街である本町三丁目にも隣接するこの地に開かれたのが「中央薬局」でした。薬局は、鉄筋コンクリート造りの7階建て本社社屋が完成する1924年までの15年ほど、本社・営業部門の中枢として機能し続けます。

なお、1908年には米国フォードの日本総代理店となり、1909年開設の小売部で医療機器を取り扱ったことも相まって、社名から「薬品」を削り、薬局開店時に「三共合資会社」と社名を変更したことが、その後の「薬品」や「製薬」のない社名につながっているのです。

よい薬を届けたいと、新しいことに果敢に挑戦し続ける塩原と、それに続いた薬剤師たちの情熱は、現在も第一三共に受け継がれています。

現在の日本橋 室町

上部には現在の第一三共本社がある本町通りの説明、下部には三共合資会社の中央薬局があった浮世小路の説明が記載されているプレート。福徳神社の前に設置されています。

トップの写真は左から、日本橋茅場町(東京)にあった三共薬品合資会社社屋、日本橋室町(東京)に移転した三共合資会社、左下は三共合資会社があった浮世小路の現在の姿、右は1924年に完成した中央通り沿いの鉄筋コンクリート7階建本社社屋。

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