高峰譲吉から贈られたフォードに乗る三共商店の設立者 塩原又策

和製ハーレー「陸王号」も製造。「三共」が明治・大正・昭和にわたり挑んだ、バイクの輸入販売と国産化実現の歩み

2023年01月18日
Our People & Culture
Share

高峰譲吉がアメリカで発明した胃腸薬「タカヂアスターゼ」を、日本で販売することで始まった「三共商店」。後に製薬事業で成長して「三共株式会社」に組織変更を行い、第一三共の前身となりました。

実は、株式会社になる前には、薬とはまったく異なる、自動車の輸入販売にも挑戦していました。その挑戦は後に、ハーレーダビットソンの販売、さらには国産オートバイ開発にも発展していくのです。

自動車がまだ珍しかった時代に、輸入を決意

始まりは1908(明治41)年、東京にまだ10台ほどしか自動車がなかった頃のこと。高峰の帰国土産のフォード車を目にした三共商店の創設者・塩原又策は、自動車を輸入しようと思い立ち、早速デトロイトのフォード社に数台を注文。高峰の仲介もあり、日本の総代理店となります。ところが部品手配や修繕設備などが伴わず、ほどなくして頓挫してしまいました。しかし、このことが大正から昭和のバイク事業へ繋がっていくのです。

ハーレーダビットソンの輸入販売がスタート

1913(大正2)年に株式会社となり、製薬に取り組んでいた三共。1921(大正10)年には、過去にフォード社の代理店をしていたことから、自動車部品や機械類の輸入商社「興東貿易株式会社」の設立に参加しました。その2年後の1923(大正12)年、興東貿易はハーレーダビッドソン社のモーターサイクル(オートバイ)の輸入販売を担うことになります。

その年は関東大震災があった年で、鉄道が壊滅的な被害を受けていたため、輸送手段としてのオートバイの需要急増に対応していきました。そして1931(昭和6)年、モーターサイクル事業を興東貿易から分離・独立させ、「株式会社ハーレーダビッドソンモーターサイクル販売所」が設立されます。

和製ハーレー「陸王号」の誕生

国産オートバイ「陸王号」(昭和10年完成)

その年末には、日本政府が行った金輸出再禁止による輸入車の価格急騰など、様々な情勢があり、ハーレーの国産化計画がスタートします。ハーレーダビッドソン社より製造権の許諾を受け、三共から委譲された品川第一工場で開発に取り組むこと3年。1935(昭和10)年4月に、和製ハーレーともいうべき「陸王号」がようやく完成しました。同時に社名を「ハーレーダビッドソンモーターサイクル株式会社」に変更し、販売を開始すると、陸王号は当時のハーレー顧客に重宝され需要が拡大。それに対応するため、製造を担う「三共内燃機株式会社」が設立されました。1937(昭和12)年2月には、ハーレーダビッドソンモーターサイクル株式会社を吸収合併し、製販体制を一本化。社名を「陸王内燃機株式会社」とし、成長していきました。

しかし、その後は敗戦の影響などもあり、会社は解散。1950(昭和25)年には「陸王モーターサイクル株式会社」として復活をとげるものの、三共の系列からは離れることになりました。

後年、日本の自動車業界の盛り上がりを見た塩原は「フォード代理店を継続していたら、日本の自動車業界に僕も一旗揚げる気運に乗っていたかもしれぬ」と回想していたそうです。そんな塩原の探求心や行動力は、今も当社に受け継がれ、創薬や人々の健康を守るための原動力となっています。

Share

トップの写真は、佐々木烈 編纂『日本自動車史 写真・史料集』(三樹書房)より

to Page Top