高峰譲吉らが世界初の結晶化に成功したアドレナリンの薬瓶

世界初のアドレナリン結晶化にも成功。様々な分野で新たな道を切り開いた創業者・高峰譲吉

2022年10月06日
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人が興奮したときに分泌されるホルモンの一種で、薬にも活用される「アドレナリン」。世界で初めて抽出に成功したのは、日本人でした。その日本人というのが、第一三共の前身のひとつである三共株式会社(以下、三共)の初代社長・高峰譲吉です。

様々な分野で新たなことに挑戦した研究者兼実業家

1854年に現在の富山県高岡市に生まれた高峰譲吉は、東京の工部大学校(現:東京大学工学部)で化学を学び首席で卒業。政府からの派遣で3年間イギリスへ留学し、最先端の化学工業に触れます。 帰国して農商務省の幹部として働いていましたが、アメリカで人造肥料の原料を目にしたことをきっかけに、肥料作りの事業を計画。33歳のとき、渋沢栄一とともに「東京人造肥料会社」(現 日産化学株式会社)を起業し、日本の農業の発展に貢献します。

起業と同時期に米麹をウイスキー作りに活用する研究も始め、成功するとアメリカで特許を取得し、渡米して研究開発の会社を立ち上げました。そのすぐ後、40歳で、麹の知識を活かして消化酵素剤のタカヂアスターゼを発明します。「タカヂアスターゼ」誕生のストーリー発明の秘話はこちら)

三共設立後は、専務の塩原又策とともに製薬以外の分野にも乗り出します。まず、アメリカのベークライト社からベークライト(フェノール樹脂)の日本の特許専用権を獲得し工業化。これは日本国内における合成樹脂工業の始まりでした。さらに、アルミニウム精錬の東洋アルミナム株式会社を設立し、富山県を流れる黒部川の水利権を確保しながら、資材運搬と湯治客の移動も担う黒部鉄道株式会社も開始するなど、多方面に事業を展開していきます。

プライベートでは、アメリカと日本を行き来していたとき、アメリカ人女性と結婚(「日米国際結婚第一号、高峰譲吉とキャロラインの物語」はこちら)。電話もなく、アメリカで日本人を見かけることがほとんどないような頃のことでした。このように、高峰は生涯を通し、常に時代の先を行き、新たな世界を切り開くような人だったのです。

一流の研究者たちが挑んだアドレナリン結晶化を実現

高峰の医療・製薬関連での大きな功績の1つが、アドレナリンの結晶化です。1890年代当時、アドレナリンの血圧上昇作用や強心作用、止血作用などが発見され、抽出・結晶化できれば薬が量産できる、との期待から研究競争が激化。世界中で一流の研究者たちが抽出に挑みましたが、成功には至っていませんでした。

高峰がそれを成し遂げたのは、タカヂアスターゼの研究・改良を続けていた46歳のとき、1900年のことでした。高峰は当時、タカヂアスターゼの販売を担っていたパーク・デイヴィス社(現ファイザー)が作ったアドレナリン研究のプロジェクトチームに参加していました。しかし、その分野のプロではなかったため順調には進まず、打開策として、広い人脈をたどって出会った薬剤師の上中啓三を助手に抜擢します。

上中も根気強く実験を続けましたが、なかなか結果は出せませんでした。高峰が研究の場を離れなければいけないことも多い中、上中は設備が十分ではない地下室で、条件を一定にするために扉を締めきり、何日もこもるような日々。数百回にも及ぶ実験を繰り返すうちに意識もうろうとなってふと我に返る…ということも一度や二度ではなかったそうです。そんな状態が半年ほど続いたある日のこと。上中は、疲労のあまり洗わないまま一晩放置してしまった試験管の中に、光るものを見つけました。それが、アドレナリンの結晶だったのです。

高峰はその特許を取得し、学会で共同研究者として上中を紹介しながら、広報活動にも注力しました。そして、大発明となったアドレナリンは、病院の常備薬として定着。また、アレルギー(アナフィラキシー)の応急処置用の注射にも使われ、例えば現在もアメリカのほとんどの病院に常備されるなど、世界中で重宝されています。

高峰のイノベーションにかける想いが、人々の命を救う薬剤になり、今も受け継がれているのです。

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