オリザニン(ビタミンB1)の新聞広告と鈴木梅太郎博士

世界で初めてビタミンを発見。専門分野を超えて研究し、多くの製薬を成功に導いた鈴木梅太郎博士

2023年02月16日
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第一三共株式会社の前身のひとつ「三共株式会社」の初代社長で、アドレナリンの抽出に成功した高峰譲吉は、1985年に特許庁によって日本の十大発明家に選定されました。その十大発明家の中にもう一人、第一三共と深い関わりをもつ偉大な研究者がいます。それが、鈴木梅太郎博士です。

世界で初めてビタミンを発見。脚気患者の減少へ

鈴木博士は、1874年に静岡県に生まれました。東京農林学校予科(後の東京大学農学部)を卒業すると大学院に進み、27歳で農学博士に。その後文部省給費学生として渡欧し、スイスで有機化学、ドイツで蛋白(タンパク)化学を学びます。帰国後には盛岡高等農業学校、続いて母校に当たる東京帝国大学農学部の教授になり、教鞭をとりながら研究を継続しました。

 

そして1910年、36歳のときに、米ぬかから有効成分を発見。イネの学名であるOryza Sativaにちなんで「オリザニン」と名付けました。現在でいう「ビタミンB1」、世界で初めてのビタミン発見でした。ただ、その当時、医師でも薬学者でもない、農学者の鈴木博士の発見は、日本国内でも認められず、世の中に定着したのは、翌年ポーランド出身のフンク博士が同じ成分を発見して名付けた「ビタミン」の方でした。

 

しかし、鈴木梅太郎博士の研究と発見の貢献は疑いようのないものです。鈴木博士はオリザニンについて、脚気(かっけ)の予防と回復に効果があり、ヒトと動物の生存に不可欠な栄養素であることを発表しました。脚気は当時、結核と並ぶ二大国民病と言われ、死亡者数も年間1万人を超えていたそうです。そんな中、三共の品川工場でオリザニン液を生産し販売を開始すると、脚気に伴う心臓障害が大幅に減少していきました。

良薬を届けるため、晩年まで研究・指導に尽力

そして鈴木博士は、実は三共だけではなく、第一三共のもうひとつの前身「第一製薬株式会社」の元となるアーセミン商会にも関係していました。会社設立のきっかけとなった輸入途絶品の「サルバルサン」国産化のため、その製造法や工業化に向けた技術などを指導し、成功に導いたのです。また、前年の1915年には、同じく輸入途絶品だったサリチル酸の試製も成功させていました。それをアルサミノールとして発売したことが、会社の初期の事業基盤強化にも繫がっていたのです。

数年後に三共の学術顧問に就任した鈴木博士は、三共が農薬事業に乗り出す契機となった、国産初の合成農薬・燻蒸殺虫剤コクゾール開発にも貢献。研究への情熱を絶やすことはありませんでした。

鈴木博士の発明は、そのほかにも貴重なコメを極力使用しない合成清酒(アルコールを元に、糖類、コハク酸、アミノ酸などを加えて、清酒のような風味にしたアルコール飲料)の製造や、その後の育児用調整粉乳の基礎となる粉ミルクの開発など、多岐にわたっています。

鈴木博士の持論のひとつに、次のようなものがあります。


「国家国民のためになるならば、他の学者がやっていないことは誰がやってもよい」

「発明家は、その発明を事業家に依頼して世に出すべきである」という考えを持つ鈴木博士は、研究者の発明を率先して製品化する三共商店創設者・塩原又策の想いにも共感していたと伝わっています。そして、専門分野を超えて人々のために研究を続ける姿勢は、高峰にも通じるものがありました。

鈴木博士は、東京帝国大学農学部長や満州国大陸科学院院長などを歴任しながら、研究開発を続け、文化勲章を受賞した1943年に、病のため70歳で亡くなりました。その前年に三共の顧問を辞任するまでの14年もの間、良薬を人々に届けたいという当社を支え続けました。

鈴木博士のビタミンなどの研究成果は今も有効活用されるとともに、その熱意や探求心は、第一三共にも受け継がれ続けています。

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