高峰一家の家族写真(左:高峰譲吉、中央:長男の長男:譲吉Jr.、左:キャロライン夫人)

歴史的な研究開発に繋がる出会い。日米国際結婚第一号、高峰譲吉とキャロラインの物語

2023年05月25日
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第一三共の前身「三共株式会社」の初代社長を務めた高峰譲吉は、生涯の半分近くをアメリカで過ごし、タカヂアスターゼの開発やアドレナリンの発見など、大きな功績を残しています。高峰が異国の地でそうした研究に励むことができた背景には、妻キャロラインの存在がありました。

和服姿のキャロライン夫人

下宿先での印象的な出会い

2人が出会ったのは、当時30歳の高峰が農商務省メンバーのリーダーとして、アメリカの産業博覧会に派遣された1884年のことでした。高峰は、退役軍人であったエーベン・ヒッチ(Ebenezer Hitch)大佐の家に下宿することになり、その娘、5人姉妹の長女が18歳のキャロラインだったのです。

キャロラインは、高峰が初めて家にやってくる日をひどく憂鬱な気持ちで迎えていました。当時、アメリカでは日本人を目にすることはほぼないような時代です。東洋人は野蛮という偏見もあり、キャロラインは高峰と一緒に食事をすることを嫌がり、泣いて部屋に閉じこもるほどでした。

それでも、母のメアリーに説得されて席についたキャロライン。高峰の流暢でなまりのない英語と、穏やかでありながらも自信に満ち溢れるその姿に驚き、間もなく彼が礼節と思慮のある紳士だと気付きます。それはほかの家族も同様で、高峰が日本の代表として派遣されている科学者であることにも信頼を寄せたメアリーは、高峰が自宅に下宿することを歓迎するまでになります。

相互理解から、初の国際結婚へ

キャロラインは、高峰からのお土産のお茶や、その包装紙に描かれていた版画などに最も興味を抱きました。また、高峰も熱心にピアノの練習をする彼女を気にかけ、日本の歌を教えたりする間に打ち解けていき、結婚を考えるまでになります。

高峰はその頃、産業博覧会で目にした人工肥料の原料になる燐鉱石(りんこうせき)を使い、日本で肥料を製造したいと考えていました。それを応援していたメアリーや家族たちは、2人の婚約に賛成してくれました。

その後、高峰は一度帰国して人工肥料の会社の準備を進め、1887年に機械の輸入などを目的に再度渡米。それまでの2年間、ダンスパーティーなどの招待も一切断り、高峰の手紙だけを頼りに待ち続けていたキャロラインと、晴れて結婚式を挙げました。高峰は、アメリカ人と正式に結婚した初めての日本人だと言われています。

異国の地や病の床でも支え合い、大きなイノベーションに

高峰はキャロラインを帯同して日本へ帰国し、東京人造肥料会社(現日産化学株式会社)を設立して農商務省を退職。肥料の売り込みをする一方で、米麹をウイスキー造りに利用する研究も開始しました。

キャロラインは言葉も通じず、習慣も違い、わからないことだらけの中、本所(墨田区)にあった自宅の近くにあった肥料工場(東京府下南葛飾郡大島村釜屋堀、現在の東京都江東区大島)からのにおいなどに悩まされながらも、日本の生活に慣れようと努力します。高峰も彼女の疑問には細やかに答えつつ、無理に日本人のように振舞う必要はないと伝えていました。そうして夫婦間の絆をより深めていき、2人の子どもに恵まれます。

1889年になると、高峰は米麹の研究に成功し、アメリカへ出願していた特許も成立しました。すると、ウイスキー原酒の生産地、イリノイ州ピオリアにあるウイスキー・トラスト社から使ってみたいと申し出があり、その近くのイリノイ州シカゴへ移住したメアリーたち家族が、高峰とキャロラインをアメリカへ呼び戻します。

シカゴから更にピオリアに移り住み、現地にも試験場を設立して研究を続けた高峰でしたが、試験場は放火と見られる火事に見舞われます。また、それまでの無理も重なって、一時期病にかかり重体に陥りますが、キャロラインの支えもあって回復。その頃にタカヂアスターゼ開発に至るのは、以前ご紹介したとおりです。

高峰がキャロラインと結婚し、アメリカを拠点にすることがなければ、タカヂアスターゼなどを開発することもなかったかもしれません。ひとつの出会いが大きなイノベーションを生み、現代の私たちの暮らしや医療に生き続けているのです。
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