大衆保健薬ルチノンの駅改札広告と当時はまだ珍しかったゴルフ画像を使った雑誌広告。背景はルチンを豊富に含むエンジュの花
1945(昭和20)年の終戦直後、人々は少しずつ復興への道を歩み始めました。第一三共の前身のひとつ「第一製薬株式会社」も生命関連産業の使命を担おうと、即座に製薬の再開に動き出します。新たに感染症治療薬や結核化学療法剤などを開発したのと同時期に、日本国内の同業他社に先駆けて発売して話題を集めたのが、血管強化剤・脳溢血防止剤「ルチノン」です。
東京大空襲の被害が少なかった船堀工場
東京大空襲の影響もあり、多くの工場が廃止や一時閉鎖に追い込まれた第一製薬でしたが、1946~47年にかけて都内の柳島工場や船堀工場、平井工場などを次々に復旧させて操業を再開します。特に、その8割を焼失しながらも、残った倉庫を中心に進められた柳島工場の復旧作業は、社員たちの「何とか回復させたい」という熱意に応え、コンロで薪を炊いて工場の熱源としたり、がれきに埋まったパイプを掘り起こして水道が出るよう努力したり、ガスが少しでも早く供給されるように尽力したことで可能になりました。
1947年2月には、焼失した日本橋の本社も復興させ、 本格的な活動を開始。1948年には感染症治療薬「テラジアジン」の発売に至ります。そして1950年に結核化学療法剤「パスナール」、1952年にはさらに効力が高い「イスコチン」の発売が続いて、業績を順調に伸ばし、 第一製薬の戦後の事業基盤を確立していきました。
発売当初のルチノン
1949(昭和24)年、財政金融引き締め政策のドッジ・ラインにより悪性インフレが終わり、いわゆるディス・インフレ時代を迎えました。 これを好機とし、各産業は流通や販売面で買い手市場へと移行し、長らく実施されてきた経済統制は撤廃の方向に向かいます。製薬業界においても生産体制も整い、医薬品の流通もようやく戦前の水準に戻りつつありました。それと同時に競争が激化しますが、第一製薬は感染症治療薬「テラジアジン」を中心とした製品により、その状況を耐え抜きます。
そして1949年8月、同業他社に先駆け、柳島工場で血管強化剤・脳溢血防止剤※「ルチノン」の製品化が成功します。赤と白のシンプルな包装で発売、メディアに紹介され、第一製薬としても同社の大衆保健薬(現在のOTC医薬品)の第一号として宣伝し、新聞広告やポスター、屋外広告などを展開したことで、発売と同時に注目され、話題になりました。
※発売当時の製品カテゴリ
ソバの花の代わりに使用したエンジュの花
ルチノンの有効成分は、植物界に広く分布しているルチンです。1943(昭和18)年、米国のグリフィス教授らが初めて、毛細血管が弱っている高血圧患者にルチンを使用して正常に回復させたという報告を発表しました。この報告をきっかけに、すでに昭和初期からルチンの研究に取り組んでいた当時の篠田社長の指導のもと、いち早く製品化と量産化に踏み切ります。
そして発売したルチノンは爆発的な人気を呼びましたが、生産が需要に追い付かなくなるという壁にぶつかります。ルチノンに使用するルチンを抽出していたソバの花は、そもそも含まれるルチンの量が少なく、花自体の入手も困難であったためです。そこで花やつぼみに多くのルチンを含むエンジュに注目し、早速中国からの輸入を開始します。他社もルチンに注目している中で、市場への一番乗りをめぐる激しい競争となりましたが、それを乗り越えることができ、多くの人に届けることができました。
戦後の厳しい状況にあっても、良薬を作ることをあきらめなかった第一製薬の情熱が実った出来事のひとつです。
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