三共三代目社長・塩原禎三と当時のオリザニン、東アジアのオフィス

戦時下の影響を受けながらも海外へ販路を拡げる。三共三代目社長・塩原禎三が率いた東アジアへの進出

2024年02月27日
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1913(大正2)年3月に株式会社となった三共(第一三共の前身のひとつ)は、大正期に資産額が設立年度の8.5倍強になるほど、急成長をとげました。その大きな要因は、1910年代に第一次世界大戦によって輸入が途絶され、主要医薬品の国産化が求められたことです。これによって大きく飛躍し、製薬業界ではトップの座を占めました。加えて、三共は化学工業分野にも乗り出し、事業の多角化をはかっていたことで業容が著しく拡大します。

三共はそれに満足することなく、海外にも市場を拡大し、自社製品を広げようとします。

恐慌や戦時下の影響を受けながらも、海外へ進出

1918(大正7)年11月にはニューヨークに、1920年5月には台北に出張所を開設。さらに1924年9月には出資会社として大連市に「三共薬品販売所」を設立し、製品を一括して引受けて販売する一手販売者としたことが東アジア地域進出への第一歩になりました。

そのように海外進出は好調な滑り出しを見せていましたが、昭和に入ると状況が暗転します。

1929年の世界恐慌や1930年の金輸出解禁等により景気が低迷し、煽りを受けて業績にも影響が出始めます。続く1931年には満洲事変が起こり、産業を国家の統制下に置く戦時経済体制が強化され、あらゆる企業が次第に経営の自主性を奪われていきました。その中でも医薬品は必需品であり、軍需用としての需要も高かったため、業界としては比較的恵まれていたものの、統制法規に対応した組織・機構の再編を余儀なくされます。

三共は1936年から翌年にかけ、経営陣の新旧交代を進めました。1936年1月には、2年前の8月に入社していた、創業者・塩原又策の長男・禎三が代表取締役の一人に。1940年4月には、又策は会長となり、禎三が31歳で第三代社長に就任します。太平洋戦争開戦の前年に新社長となった禎三は、悪化する諸条件の中で日本国内生産を維持しつつ、東アジア・東南アジア圏への進出事業を推し進めていきます。

1929年に新設された大連工場。醤油や合成酒なども製造

中国各地での製薬・販売

中国南部では、1929(昭和4)年1月に「大連工場」を新設し、アミノ酸醤油や合成酒の大和牡丹などの製造・販売を開始。1938年4月には同工場内に「大連出張所」を開設します。

1940年1月には、満洲における事業統括機関として、奉天市(現在の遼寧省 瀋陽市)琴平町に「満洲三共株式会社」を設立。後に、奉天市にあった三共薬品販売所と、大連工場および大連出張所を併合し、自社製品と三共の全製品の販売を担いました。
1942年11月には「撫順工場」が稼働して農薬の生産を開始し、2年後には医薬品の製造設備も整えます。

中国北部でも、天津や青島出張所を開設します。天津には2つの商社と共同出資で工場を建設し、アドソルビンなどの医薬品を製造・販売しました。中国中部では、上海に出張所を開設し、市内に工場を新設してビタミンB1などを製造・販売します。(1945年8月に日僑管理事務所により接収)

このほか、1942年10月には「広東出張所」を開設し、1944年に設立した「海南島事務所」では農薬原料や薬用植物の試植を行うなど、中国各地に拠点を広げました。

1944年に設立した海南島事務所では農薬原料や薬草植物の試植を実施

台北やソウルにも販売網を拡大

台北市には、比較的早い1920年5月に「台湾出張所」を開設し、製品の販売拡大にあたっていました。1941年10月にそれを発展的に改組して「台湾三共株式会社」を設立し、事業強化を図ります。(終戦後に接収)

1930(昭和5)年8月には、京城府(現在のソウル特別市にあたる、当時の日本領朝鮮の行政区域)の有力業者を集めて「株式会社朝鮮三共組」を設立。翌年開設した京城駐在所が協力し、製品の販売拡大に努めました。

さらに、1942(昭和17)年には、北ボルネオのクチン(現在のマレーシア・サラワク州)に事業所および工場を開設。南ボルネオのバリックパパンとバンジャルマシン(現在のインドネシア・カリマンタン)にも、1943(昭和18)年に事業所を、翌1944(昭和19)年に工場を設立。マラリアの治療薬であるキニーネ錠や、オリザニン(ビタミンB1)、蚊取り線香の製造販売を行いましたが、すぐに戦況が悪化し工場は焼失、従業員は終戦まで現地の野戦病院で勤務したそうです。

ちなみに、上記の台湾三共株式会社と株式会社朝鮮三共組の取締役社長は、三共の三代目社長・塩原禎三自らが務めました。戦時下の混乱期にあっても、薬を届けたいという熱意はとどまることなく、海外でも積極的に事業を展開したのです。

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