東京国立博物館の庭園内に寄贈された転合庵。今も茶会などが開かれます。

文化・芸術への造詣が深かった、三共創設者・塩原又策と東京国立博物館に残る茶室「転合庵」

2023年11月28日
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1872年の博覧会を機に誕生し昨年創立150年を迎えた、東京・上野の東京国立博物館。6つの展示館の収蔵品数は、約12万件。その中には、国宝89件、重要文化財648件が含まれており、常にさまざまな展示や催しが行われています。美しい庭園も見どころの一つですが、その中には第一三共の歴史と関わりのある茶室があります。

東京国立博物館に残る、第一三共にゆかりある茶室

東京国立博物館本館北側に広がる庭園は、博物館創立当初に動植物の研究部門「天産部」があったことから珍しい樹木や野草が植えられており、四季折々の花々と紅葉を楽しむことができます。中央の池の周りには、5代将軍・徳川綱吉が法隆寺に献納した五重塔や石碑などのほかに、5棟の茶室が点在。その茶室のひとつ「転合庵(てんごうあん)」は、第一三共の前身の一つである、三共株式会社の元となる「三共商店」創業者・塩原又策が一時所有していたものでした。

進取果敢な経営者であり、文化人でもあった塩原又策

塩原又策は、先見の明と決断力のある人物でした。1898年、2人の友人からの共同出資を受けて横浜で立ち上げた三共商店は、科学実業家・高峰譲吉がアメリカで発明した胃腸薬「タカヂアスターゼ」の輸入販売から事業を開始。当初は東京の薬局に持ち込んでいましたが、塩原の努力により3年後には関東・関西に総代理店をもつまでになります。

1902年からは高峰が次に発明したアドレナリンの輸入販売も押し進め、それをアメリカで販売していたパーク・デイヴィス社(現 ファイザー)の日本総代理店に選定されると、扱う薬品の数を順調に増やしました。 その後,高峰譲吉からの勧めもあってアメリカのセントルイス市で開催されていた万国 博覧会にあわせて,北里柴三郎と法学博士穂積陳重に同行。当時27歳であった塩原が最大の目的としたのは,パー ク・ディヴィス社の訪問でした。先進国米国の研究所や施設などを見学後、欧州諸国を回って帰国した塩原は、製薬事業に踏み出すことを決意。栄養剤グリコナールや乳酸菌製剤ラクトスターゼなどの新薬を製造し、さらに成長した三共商店が1913年に三共株式会社となったというのは以前ご紹介したとおりです。(「三共商店」誕生と発展のストーリーはこちら

その成長の背景には、塩原が印象的なフォントを使い、論文内容なども掲示したタカジアスターゼの広告を集中的に日刊紙に出したり、自社品の情報に加え、最新医薬品情報や医療従事者に役立つ国内外の文献紹介にも多くのページを割いた「治療薬報』と「薬業月報』 を創刊したりと、広告活動で知名度を向上させたこともありました。

塩原には、茶道や骨董品収集を嗜む文化的な面もありました。陶器の研究をする「彩壺会」の会長を務め、国宝級の名品も数々と所蔵。建築にも造詣が深かったのです。その表れともいえるのが、茶室の転合庵です。

長く受け継がれ、現在も茶会などが開かれる転合庵

5月の転合庵

転合庵は、山型の切妻屋根をもつ木造平屋建てで、四畳半の座敷と水屋などがある茶室です。千利休、古田織部などに続く茶道の本流を受け継いだ江戸時代初期の大名茶人・小堀遠州(こぼりえんしゅう)が、桂宮から茶入(茶の湯で抹茶を入れる容器)「於大名(おだいみょう)」を賜り、その披露のために京都伏見の六地蔵に建てたものでした。

1878年に福岡県令や福島県知事を務めた渡辺清が譲り受けると、東京麻布区霞町に移築。その後、茶入「於大名」も入手した日本郵船社員・三原繁吉を経て、次の所有者となったのが、茶道や陶器に精通していた塩原だったのです。1955年に塩原が逝去し、その後1963年、妻の千代が茶入とともに東京国立博物館に寄贈しました。

転合庵では現在も、茶会や句会、コンサート等を開くことができる(有料)ほか、茶室を間近で眺められる「庭園茶室ツアー」が定期的に開催されています。みなさんも機会があれば訪れ、塩原たちが愛した茶室を覗いてみてはいかがでしょうか。

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