右上:アヂスチン、右下:パスナール、左:テラジアジンとイコスチンのネオン広告

戦後の人々を病から救う新薬づくり。感染症治療薬の国産第一号と、先駆的な結核治療薬の開発ストーリー

2023年08月31日
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第一三共の前身のひとつである第一製薬株式会社は、1945年の東京大空襲で大打撃を受けました。それでも、戦後の人々の健康を支えなければならないとの想いで、いち早く生産体制を整え、感染症治療薬を発売。さらに、自然治癒を待つしかなかった結核治療の光となる薬も生み出します。

大空襲の被害による大被害。不屈の想いで国産第一号の新薬を開発

東京大空襲によって日本橋の本社がほぼ全焼し、関東の4工場のうち3つの工場が大きく損傷した第一製薬。奇跡的に被害を免れた柳島工場を拠点に、翌年の1946年には製薬を再開します。原料資材の欠乏と価格高騰の影響はありましたが、まずは工業薬品「ハイドロサルファイト」や「乳酸」、細菌性疾患薬の「テラポール軟膏」などを製造。続いて、主要原料であるジギタリスを自家栽培して完成させた強心剤「アヂスチン」を、戦後第一弾の新薬として発売。1947年には、赤痢や腸炎などに効果的なサルファ剤「スルファグアニジン」をはじめとした医薬品を世に送り出します。

そして1948年に発売したのが、柳島工場で製造した感染症治療薬のサルファダイアジン「テラジアジン」です。サルファダイアジンは、大戦中に米兵が負傷したときに服用していたことで、優れた薬効がすでに知られていた薬でした。それを独自の技術で製造し、「国産品第一号」として販売したのです。

テラジアジンは、従来のサルファダイアジンよりも副作用が少なく、効き目は劣らないことから、広く普及しました。第一製薬は、1937年に初の国産サルファ剤「テラポール」を発売していたこともあり、このテラジアジンも加わったことで、サルファ剤のトップメーカーとして知られるようになります。

日本の結核患者さんの希望となった「パスナール」

同じ頃、第一製薬が新たに踏み出したのが結核治療の分野です。当時の日本の結核治療は自然治癒を待つのみで、打つ手がない状態でした。一方、欧米では2種の治療薬、ストレプトマイシン(SM)とパラアミノサリチル酸(PAS)が登場していました。第一製薬は、それらに劣らない結核治療薬の開発を目指します。

まず、1947年頃に結核性膿瘍の治療剤「ツベルフラビン」を発売。結核の決定的な薬ではありませんでしたが、唯一の結核性膿瘍の治療剤として注目されました。その研究を深めて独自のPASの合成法を開発し、1950年に発売したのが結核化学療法剤「パスナール」です。パスナールは、現在も使用されるヒドラジドが登場するまでの間、先駆的な結核化学療法剤として重宝されました。

結核治療に高い効力をもつ「イスコチン」製造にも短期間で成功

第一製薬の結核化学療法剤開発はそれだけにとどまりません。1952年、新結核化学療法剤イソニコチン酸ヒドラジド(INAH)がアメリカで試製されると、めざましい臨床効果をもつ結核の特効薬として報道され、日本でも大きな反響を呼びました。

第一製薬でも試製に挑み、INAHが報道された日からわずか10日ほどで数グラムの合成に成功。そこから10グラム程度の小瓶に小分けされ、各地の病院や結核療養所、大学の研究室で基礎的な実験と臨床試験を開始しました。すると、高価なSMや大量に服用しなければならないPASに比べて副作用が少なく、高い効力をもつことも証明されました。そのため、発売前から注文が殺到。柳島工場の社員たちは急遽、量産体制を整え、数カ月後に「イスコチン」として発売にこぎつけたのです。

同様の治療剤の製造承認を受けた製薬会社は45社に及び、競争の激化が予想されました。その中、第一製薬はイスコチンの試製品をいち早く病院などに提供していたことで品質の高さを証明し、画期的な結核化学療法剤として強固な地盤を築きました。

戦後の厳しい状況の中で新薬開発に挑み、難病患者さんたちにも希望を与える薬を開発した第一製薬。その情熱は、今も第一三共に根付いています。

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