第一製薬発起人8人の署名と慶松勝左衛門

慶松勝左衛門のもとに8名が集合。第一製薬株式会社の始まりのストーリー

2023年06月29日
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第一三共は、第一製薬株式会社と三共株式会社が統合して生まれた製薬会社です。

以前ご紹介したとおり、三共は、高峰譲吉がアメリカで開発した胃腸薬・タカヂアスターゼを日本で販売することから始まりました。その販売を行っていた塩原又策と、タカヂアスターゼを塩原に紹介した友人の西村庄太郎、さらにもう1人の友人の福井源次郎、3人の共同出資によって始まったため、「三共」と名付けられたのです(三共商店設立のストーリーはこちら)。

一方の第一製薬は、当時輸入品に頼りきりだった梅毒治療薬・サルバルサンの国産化(登録名称:アーセミン)で事業を開始。当初は「アーセミン商会」という社名でしたが、後に株式会社へ改変されたときに「第一製薬」となりました。その名称になった経緯や由来は、残念ながら記録が残っていません。「第一」とありますが、日本初の製薬会社だったり、1人が始めたというわけではなく、実際の設立には8人の人物が関わっていました。

会社立ち上げの立役者・慶松勝左衛門が出資者集めに奔走

第一製薬の前身であるアーセミン商会は、1915年の発足時は「匿名組合」でした。匿名組合とは、組合員が営業者のために出資し、その出資率に応じて利益の分配を受ける契約形態です。

開発したネオ・ネオ・アーセミンが軌道に乗り、翌1916年には「合資会社」となったアーセミン商会。その後も順調に業績を伸ばすと、増資によって設備を拡張しました。そして間もなく、増産体制を整えたいという思いと、国産サルバルサンの重要性に対し確固たる自信をもつようになり、「株式会社」への組織変更を計画し始めます。

そんな中、かつてアーセミンの試製に成功してアーセミン商会発足のきっかけを作った、慶松勝左衛門(けいまつしょうざえもん)が経営陣を選出し、発足の際の援助者たちに再度出資を依頼。ところが、さまざまな事情で同意が得られませんでした。しかし、慶松があきらめることはなかったのです。


第一製薬初代社長 柴田清之助

友人・榊原常吉の協力を得て、最終的に8人の発起人が集結

状況を打開するために白羽の矢を立てたのが、薬剤師でありツヨール商会主の榊原常吉。慶松は榊原にアーセミンの製品化について協力を求めたり、アーセミン商会の工場をツヨール商会の土地の一角に建設したりと、公私ともに親しい間柄でした。その榊原に相談役を任せ、金銭面で有力な実業家を推薦してもらえないかと相談を持ちかけます。すると、榊原の友人で、染料商を営む田沢又右衛門と、同業者の柴田清之助が参加することになりました。当時、染料は医薬品以上に消費量が多く、輸入額も多額で経営規模が大きい事業でした。さらに、薬との関連もあるため、これは的確な人選だったと言えます。

最終的に、アーセミン商会の支配人だった四倉峰雄などが加わり、次の8人が発起人として集まりました。

・柴田清之助(後の第一製薬株式会社初代社長)
・津村重舎(津村順天堂創業者)
・島田久兵衛
・田沢又右衛門
・星野石松
・勝栄三郎
・四倉峰雄
・榊原常吉

そして、事業目的を「医薬品用薬品及び理化学用工業用薬品の製造並びに販売、医療用理化学用諸機械の製造並びに販売、前記の目的に関連する付帯事業」として、定款案を作成します。

アーセミン商会は当初から、「近代医学と直接結びついた学術的に権威ある純良医薬品の創製」という理想を掲げていました。国産の質の高い医薬品を作るという想いを継承した形で、定款にまとめたのです。

1918年1月、取締役社長に柴田清之助、専務取締役に四倉峰雄、取締役に津村重舎と星野石松、監査役に榊原常吉と田沢又右衛門が就任。そして、顧問となった慶松を含む全26名の株主が集合し、合資会社を解散。一切の権利を引き継いで、第一製薬株式会社を設立しました。

慶松と友人の榊原が中心となり、一致団結した多くの人たちの想いは、今の第一三共にも受け継がれています。

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