友人・榊原常吉の協力を得て、最終的に8人の発起人が集結
状況を打開するために白羽の矢を立てたのが、薬剤師でありツヨール商会主の榊原常吉。慶松は榊原にアーセミンの製品化について協力を求めたり、アーセミン商会の工場をツヨール商会の土地の一角に建設したりと、公私ともに親しい間柄でした。その榊原に相談役を任せ、金銭面で有力な実業家を推薦してもらえないかと相談を持ちかけます。すると、榊原の友人で、染料商を営む田沢又右衛門と、同業者の柴田清之助が参加することになりました。当時、染料は医薬品以上に消費量が多く、輸入額も多額で経営規模が大きい事業でした。さらに、薬との関連もあるため、これは的確な人選だったと言えます。
最終的に、アーセミン商会の支配人だった四倉峰雄などが加わり、次の8人が発起人として集まりました。
・柴田清之助(後の第一製薬株式会社初代社長)
・津村重舎(津村順天堂創業者)
・島田久兵衛
・田沢又右衛門
・星野石松
・勝栄三郎
・四倉峰雄
・榊原常吉
そして、事業目的を「医薬品用薬品及び理化学用工業用薬品の製造並びに販売、医療用理化学用諸機械の製造並びに販売、前記の目的に関連する付帯事業」として、定款案を作成します。
アーセミン商会は当初から、「近代医学と直接結びついた学術的に権威ある純良医薬品の創製」という理想を掲げていました。国産の質の高い医薬品を作るという想いを継承した形で、定款にまとめたのです。
1918年1月、取締役社長に柴田清之助、専務取締役に四倉峰雄、取締役に津村重舎と星野石松、監査役に榊原常吉と田沢又右衛門が就任。そして、顧問となった慶松を含む全26名の株主が集合し、合資会社を解散。一切の権利を引き継いで、第一製薬株式会社を設立しました。
慶松と友人の榊原が中心となり、一致団結した多くの人たちの想いは、今の第一三共にも受け継がれています。